映画監督

2014年12月 5日 (金)

高倉健とリドリー・スコットのエピソード

(Yahooニュース)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141205-00034131-crankinn-movi

高倉健とリドリー・スコットのエピソード

現地時間12月3日、ハリウッド大作『エクソダス:神と王』
のワールドプレミアがロンドンで開催され、
メガホンをとった巨匠リドリー・スコット監督が出席。

その後、巨匠リドリー・スコット監督が高倉健さんとの
エピソードを語った。。

「あるとき、僕はひどい風邪をひきながらタバコを吸い続け
ていたんだ。健さんはそんな僕に毎朝『タバコはやめた方がいい』
と助言してくれて、風邪が長く続いていると知ると
『私が治してみせる』と言って翌日には漢方薬を
持ってきてくれた。
その薬を飲んだ2日後には治ってしまったのをよく覚えている」。

また「お互いにクリスマスカードを送ったり、
毎年連絡を取りあう仲だったよ」と撮影後も交流があったという。

映画撮影の終わりに高倉さんから貰った編み細工の籠(かご)
を今でも大事にとってあると話し、
「それを見るたびに“ケン・タカクラ”を思い出す。
いつも親切に接してくれたことは今でも忘れられない」
と思いをはせた。

ブラックレインは、
ブレードランナーからのファンである私にとって、
リドリー・スコットの映像に、高倉健、松田優作が
映っているだけで満足だった。

松田優作さんが、亡くなったこともあり、
6回映画館に足を運んだ。

⇒ 高倉健・特集 サイトもご覧下さい。

2011年5月31日 (火)

黒澤明監督<お勧め名作映画作品>

お勧め名作映画(邦画洋画)

【黒澤明監督】

1910年3月23日 - 1998年9月6日)
日本の映画監督。

日本では「世界のクロサワ」と呼ばれた
巨匠です。

米国映画芸術科学アカデミー会員。
栄典及び称号は、従三位・文化勲章
・文化功労者・国民栄誉賞・東京都名誉都民。

1910年(明治43年)、
東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)
の日本体育会(現在の日本体育大学)敷地内
において生まれる。

4男4女の末っ子であり、
父親は秋田県中仙町(現在の大仙市)出身の
元軍人で、体育教師をしていた。

中学生時代には、ドストエフスキー、
トルストイ、ツルゲーネフなどのロシア文学
を読みふけり、人生観、倫理観の形成に
多大な影響を受けた。

初め画家となることを志した黒澤は、
日本プロレタリア美術家同盟に参加。
洋画家・岡本唐貴(白土三平の実父)
に絵を教わり、二科展にも入選しています。

1936年(昭和11年)、
100倍の難関を突破してP.C.L.映画製作所
(後に東宝と合併)に入所。

映画監督・山本嘉次郎の下での
助監督を務め、映画 『馬』(1941年)
などを担当した。

1950年に大映で撮影した『羅生門』は、
1951年にヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。
その映像感覚が国際的に注目される。
続けてドストエフスキー原作の
『白痴』(1951年)やヒューマンドラマの
傑作『生きる』(1952年)を撮り、
後者でベルリン国際映画祭上院特別賞を受賞。

1954年に発表した大型時代劇『七人の侍』は大ヒットし、
ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞するなど
国際的にも高い評価を受ける。
シェイクスピアの『マクベス』を
日本の戦国時代を舞台に翻案した
『蜘蛛巣城』(1957年)
や娯楽時代活劇『隠し砦の三悪人』(1958年)
を撮った後に、独立プロダクションである
黒澤プロを設立。

時代活劇『用心棒』(1961年)
『椿三十郎』(1962年)、
社会派サスペンスの傑作『天国と地獄』(1963年)

を立て続けに発表し、大監督の名声を確定させる。

1968年に日米合作『トラ・トラ・トラ!』の制作
に参加する。

20世紀フォックス側のアメリカ公式発表では
黒澤は日本側部分の演出担当、
黒澤プロ側の公式発表および日本での報道では
総監督となっていた。

しかし健康問題を理由に制作を離れることとなる。

1970年黒澤が制作を離れた後に完成した
『トラ・トラ・トラ!』についての
週刊朝日のインタビューに対し、

黒澤は「見ていないし、見たくもない、
当時の改善提案が修正されているとは思えない。

済んだことであり興味がないし蒸し返すのは
もうたくさんで、忘れてしまいたい」
旨の内容を答えている。

1970年10月 山本周五郎『季節のない街』を
原作、木下惠介、市川崑、小林正樹らと
結成した四騎の会製作とし、
黒澤個人の邸宅を抵当に入れて資金を確保し、
初のカラー作品『どですかでん』を
撮影・公開するが、商業的には失敗となる。

1971年末、自殺未遂事件を起こす。

日本の映画産業の衰退の時期と
重なったこともあり、
この後は5年おきに撮るようになった。

1975年にソビエト連邦から招かれ
(日本のヘラルド映画社がロシア側に接触して、
「黒澤を招いた」という形になるようお膳立てした)、
ごく少数の日本人スタッフを連れて
ソ連に渡り『デルス・ウザーラ』を撮った。

ソ連の官僚体制の中で思うように撮影が進まず、
シベリアのタイガでのロケーション撮影は
困難を極めた。

完成した作品は、それまでの作風と異なり
極めて静的なものであったために日本国内では
評価が分かれたが、
モスクワ映画祭金賞、
アカデミー外国語映画賞を受賞。

ソ連側の期待に十分に応え、
日本国外では黒澤復活を印象づける作品となる。

1976年11月、日本政府から文化功労者として
顕彰される。

その後も外国資本参加による映画制作が続き、
ジョージ・ルーカス、
フランシス・フォード・コッポラを
外国版プロデューサーに配した『影武者』(1980年)、
フランスとの合作の『乱』(1985年)、
米ワーナー・ブラザーズ製作で
スティーブン・スピルバーグ提供の『夢』(1990年)
などの作品を監督。

1985年11月、文化勲章受章。

1990年米アカデミー名誉賞を受賞。

ルーカスとスピルバーグが、
「現役の世界最高の監督です。
“映画とは何か”に答えた数少ない映画人
の彼にこの賞を送ります」と紹介した。

『八月の狂詩曲』(1991年)、
『まあだだよ』(1993年)に続く次回作として
予定されていた『雨あがる』の脚本執筆中に、
京都の旅館で転倒骨折。

療養生活に入り1998年9月6日脳卒中により死去。
88歳没。

同年10月1日、
映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞、

翌1999年には米週刊誌『タイム』アジア版で
「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選ばれた。

また、黒澤明といえば、三船敏郎です。

ジョン・フォードとジョン・ウェイン、
マーチン・スコセッシとロバート・デ・ニーロ
と同じように強固な関係です。

黒澤は、1948年の『醉いどれ天使』にはじまり、
1965年の『赤ひげ』まで計16本の映画に
三船敏郎を起用し、
頻繁に主演として使った。基本的に役者に
惚れこむ事の無い事で知られる黒澤も、
三船敏郎だけは別。。

黒澤は
「三船君は特別の才能の持主で代わる人
がいないんだ」
と語っている。

黒澤の世界的な評価と同時に三船も
「世界のミフネ」として海外で広く知られる
存在になっていった。

ただ、
「赤ひげ」を最後に黒澤は三船を使わなくなり、
そのため2人の関係は様々に取り沙汰される
ことになります。

残念ながら、それ以降、作品のテーマも
変わってしまします。

私生活の黒澤はグルメで知られ、

大の「肉好き」だったようだ!

また、酒も煙草も嗜み、

特にウイスキーが大好物で、
当時まだ珍しかったジョニーウォーカーやホワイトホース
を愛飲していました。

<黒澤明監督作品>

1943年 『姿三四郎』

1944年 『一番美しく』

1945年 『續姿三四郎』

1945年 『虎の尾を踏む男達』

1946年 『明日を創る人々』

1946年『わが青春に悔なし』

1947年 『素晴らしき日曜日』

1948年 『醉いどれ天使

1949年 『静かなる決闘

1949年『野良犬』

1950年 『醜聞』

1951  『羅生門

1951年ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞
・イタリア批評家賞、
1951年ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞監督賞、
1953年アメリカ監督組合賞ノミネート、
1952年米アカデミー賞名誉賞(現在の外国語映画賞))

1951年 『白痴』

1952年 『生きる』

1954年ベルリン国際映画祭ベルリン上院特別賞

1954年  『七人の侍

1954年ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞

1955年 『生きものの記録

1957年 『蜘蛛巣城』

1957年 『どん底』

1958年 『隠し砦の三悪人』

1958年ベルリン国際映画祭銀熊賞監督賞・国際批評家連盟賞

1960年 『悪い奴ほどよく眠る』

1961年 『用心棒』

1962年 『椿三十郎』

1963年 『天国と地獄

1965年 『赤ひげ

1965年ヴェネツィア国際映画祭国際カトリック映画事務局賞
   (OCIC Award)、
 モスクワ映画祭ソ連映画人同盟賞、
 フィリピン・マグサイサイ賞ジャーナリズム部門賞

1970年 『どですかでん』

モスクワ映画祭映画労働組合賞

1975年 『デルス・ウザーラ』

1975年モスクワ映画祭金賞・国際連盟批評家賞、
1976年米アカデミー賞外国語映画賞、
1977年伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)、
1977年イタリア批評家協会賞監督賞(外国語)、

1980年 『影武者』

1980年カンヌ国際映画祭パルム・ドール、
1981年英国アカデミー賞監督賞、
1981年セザール賞外国語映画賞、
1981年イタリア批評家協会賞監督賞(外国語)、
1981年伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)、
1981年ベルギー映画批評家協会監督賞

1985年 『乱』

1985年米アカデミー賞監督賞ノミネート、
1985年全米批評家協会賞作品賞、
1985年ニューヨーク批評家協会賞外国映画賞、
1985年ロサンゼルス批評家協会賞外国映画賞、
1985年ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞監督賞、
1985年ボストン批評家協会賞作品賞、
1986年伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)、
1987年英国アカデミー賞外国語映画賞、
1987年ロンドン映画批評家賞監督賞

1990年 『

1991年 『八月の狂詩曲』

1993年 『まあだだよ』

受賞歴
1979年 モスクワ映画祭名誉賞
1980年 カンヌ国際映画祭35周年記念特別表彰
1982年 ヴェネツィア国際映画祭栄誉金獅子賞(Career Golden Lion)
1984年 第2回川喜多賞
1985年 文化勲章
1986年 アメリカ監督組合賞特別賞
1990年 米アカデミー名誉賞
1990年 日本国福岡市 福岡アジア文化賞創設特別賞
1992年 アメリカ監督組合賞生涯功労賞
1992年 高松宮殿下記念世界文化賞 演劇・映像部門賞
1998年 国民栄誉賞

⇒ 高倉健・特集 サイトもご覧ください。

2011年5月27日 (金)

クエンティン・タランティーノ監督<お勧め名作映画作品>

お勧め名作映画(邦画洋画)

【クエンティン・タランティーノ監督】

クエンティン・タランティーノ
(英: Quentin Tarantino/
本名クエンティン・ジェローム・タランティーノ 
英: Quentin Jerome Tarantino,
1963年3月27日 - )はアメリカ人映画監督。

タランティーノはテネシー州ノックスビル
(Knoxville, Tennessee)で生まれ、

22歳の時、タランティーノは
マンハッタン・ビーチ(Manhattan Beach)
のビデオショップ「マンハッタン・ビーチ
・ビデオ・アーカイブ」
(Manhattan Beach Video Archives)の店員となり、
ロジャー・エイヴァリー(Roger Avary)
のように客と様々な映画について
語る日々を送った。

レンタルビデオショップ店員として
大量の映画に埋もれ働きながら脚本を書く。
この当時に培った映画の知識が後の映画制作
に役立っている。

主にアジアを中心としたマニアックな
映画・日本のアニメ・音楽に精通しており、
自身の監督作品の随所に独特のセンスが
うかがえる。

そのためか、タランティーノの作風は、

パロディ・オマージュ・引用のほか、

千葉真一(Sonny chiba)や

パム・グリアなどタランティーノが熱狂的な

ファンである俳優を出演させている。

レンタルビデオショップ店員時代に

日本映画にもどっぷりハマっており、

脚本を担当した映画『トゥルー・ロマンス』でも、

主人公のサブカルチャー・ショップの店員が

「Sonny chibaの空手映画のファン」

という設定にしている。

『パルプ・フィクション』では、

ブルース・ウィリスに日本刀での殺陣を行わせた。

三隅研次・『修羅雪姫』(梶芽衣子版)の影響を

強く受けたとされる『キル・ビル Vol.1』では

大葉健二を起用したり、

ファンである日本人映画監督が

石井輝男・石井聰亙・石井隆・石井克人と、

石井姓が多いことにちなみ、

敵のヤクザの名前を「イシイ」としたりなど、

タランティーノの感性を垣間見ることができる。

『キル・ビル Vol.1』は、アジア監督の中では

ジョン・ウーと並んで彼に大きな影響を

及ぼした深作欣二に捧げられている。

タランティーノが現役の監督で初めて

夢中になった監督はブライアン・デ・パルマである。

ハリウッドのパーティでローレンス・ベンダーに出会い、

脚本を書くように勧められる。

タランティーノは『レザボア・ドッグス』

で脚本家・映画監督としてデビューした。

脚本が米映画俳優のハーヴェイ・カイテル

に認められ、彼の出演とプロデュースを受けて、

カンヌ国際映画祭にも出品され、

カルト的ヒットとなった。

世界的にも配給されタランティーノは

デビュー作にして注目されることとなる。

監督二作目『パルプ・フィクション』では

早くもカンヌ国際映画祭・パルムドール(最優秀作品賞)

を始め数々の賞に輝き、

米アカデミー賞脚本賞も受賞、

新しい米映画の旗手として認知されるに至った。

彼の映画製作会社「A Band Apart」は
この社名は映画『はなればなれに』
(ジャン=リュック・ゴダール監督、1964年)
にちなんでいる。

やはり、クエンティン・タランティーノの魅力は、
脚本力だが、
当初、自分で監督できず、脚本を売った作品には、
自分の意図と違った作品もあったようだ。

トゥルー・ロマンスのクエンティン・タランティーノ
が書いたラストは、
クラレンス(クリスチャン・スレイター)
は死ぬことになっていたそうですが、
映画では死なないこととなっています。

ウン!
クエンティン・タランティーノなら殺す
はずと思った方も多いでしょう。

実は、レザボア・ドックスのMr.ホワイト
(ハーベイ・カイテル)の台詞の中に、
出てくる、アラバマは、
このトゥルー・ロマンスに出てくるアラバマ
(パトリシア・アークェット)で、
クラレンスを失くして、いろいろな人間と
組んで仕事をしているという設定だったよう
なのです。

また、脚本をいやいや?売った、
ナチュラル・ボーン・キラーズは、
オリバー・ストーンによる、
タランティーノの意図とは異なる大幅な
ストーリーの変更に強い不満を示し、激怒した。
と言われています。

ただ、トゥルー・ロマンスの方は、
監督トニー・スコットの手腕は素晴らしい!
とコメントしていましたが、
ナチュラル・ボーン・キラーズの方は、
見たくもないと言っていたようです。

タランティーノが監督した両作品も
見たかった気がしますがね。。。

タランティーノ監督作品群:

1992年 『レザボア・ドックス』

1994年 『パルプ・フィクション』

カンヌ国際映画祭パルムドール(1994年)

アカデミー賞脚本賞(1995年)

1997年 ジャッキー・ブラウン Jackie Brown

2003年 キル・ビル Vol.1 Kill Bill: Vol. 1

2004年 キル・ビル Vol.2 Kill Bill: Vol. 2

2007年 デス・プルーフ in グラインドハウス Grindhouse

2009年 イングロリアス・バスターズ Inglorious Bastards

脚本 :

1992年 『トゥルー・ロマンス』

ナチュラル・ボーン・キラーズ

フロム・ダスク・ティル・ドーン

⇒ 男の雑貨 サイトもご覧ください。

スタンリー・キューブリック監督<お勧め名作映画作品>

お勧め名作映画(洋画邦画)

【スタンリー・キューブリック監督】

スタンリー・キューブリック
(Stanley Kubrick, 1928年7月26日
- 1999年3月7日)は、

アメリカ合衆国ニューヨーク州
ニューヨーク市ブロンクス生まれの
映画監督。

のちにイギリスに移住。

イギリス・ハートフォードシャーの
自宅で心臓発作で息を引き取った
とされるが、正式な死因は明らかに
されていない。

初期の頃より、監督のみならず
映画製作全般にわたり、
すべてを掌握する姿勢をとり続けた。
「完全主義者」といわれ、
特に晩年は映画製作に時間がかかる
ことでも有名だった。

1946年ニューヨーク市立大学
シティカレッジに入学するがすぐに中退。
一時はジャズバンドのドラマーを
目指していたが、
見習いカメラマンなどもしていたようだ。

キューブリック自身は
「どちらかを選ばなければならないとし
たら、チャップリンだ」
とコメントしている。

26歳の時、同い年のジェームス・B・ハリスと組み、
ハリス=キューブリック・プロダクションズを設立。

キューブリック映画の特徴として、

よく動くカメラ、
大画面で深い奥行きの出る広角レンズ。

『時計じかけのオレンジ』以降の
カラー作品では自然光を利用した、
あるいは自然光を模した照明。

恐怖演出として「上目遣いで画面を睨み付ける」
この手法はロジャー・エバートら
評論家からは
「キューブリックの凝視(Kubrick stare)」
と呼ばれている。

12年ぶりの監督作品となった
『アイズ・ワイド・シャット』の完成後、
公開を待たずに心臓発作で死去。

70歳であった。

キューブリックの人柄は、映画からも
伝わってくるが、
「偏屈」
という言葉が似合う気がする。
すべて、「自分の力」といわんばかりの
性格だったよう。

『突撃』、『スパルタカス』の製作者として
キューブリックに活躍の場を与えたダグラスは、
手腕を買っていたのに完成後、
自分を貶める発言を繰り返すキューブリックに
我慢ならず、
自伝に「キューブリックは才能のあるクソッタレだ」
と書いて監督手腕は認めつつも、人間性を批判した
そうだ。

スタンリー・キューブリック監督作品群:

1951年 『拳闘試合の日』

1955年 『非情の罠 』

1956年 『現金に体を張れ』

1957年 『突撃』

1960年  『スパルタカス』

1962年 『ロリータ』

1964年  『博士の異常な愛情』

1968年  『2001年宇宙の旅 』

1971年 『時計じかけのオレンジ』

1975年 『バリー・リンドン』

1980年  『シャイニング 』

1987年 『フルメタル・ジャケット』

1999年 『アイズ・ワイド・シャット』

マイケル・マン(Michael Mann)監督映画<お勧め名作映画作品>

お勧め名作映画(邦画洋画)

【マイケル・マン(Michael Mann)監督】

アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ出身の映画監督・

脚本家・映画プロデューサー。

1984年、TVシリーズ『マイアミ・バイス』を

製作し大成功を収める。

これは、日本でも放映され、わたしが始めて

カッコいいと思ったテレビシリーズ。

スタイリッシュな映像と演出。登場人物の

生真面目さが格好よかった。

興行的に良かったのは

1992年の『ラスト・オブ・モヒカン』。

ハードボイルドでドラマチック、骨太で、

生真面目なプロを描ききる。

それ以外興味がないという感じで、全作品に

貫かれている。

頑固一徹監督である。

女っけがほとんどないが、

(女性が登場する場合、女性もカッコいい)

キャリアウーマン志望のかたにはいいかも。

凄いのはガンアクションの演出。

代表的なものは、『ヒート』、そのテレビ版

だった

『メイド・イン・LA』

で、リアリスティックかつ大迫力の銃撃戦が

堪能できる。隠れた名作。。

マイケルマン作品群:

1983年 『ザ・キープ』

1986年 『刑事グラハム/凍りついた欲望 』

1992年 『ラスト・オブ・モヒカン』

1995年 『ヒート』

1982年 『インサイダー』

1984年  『ALI アリ』

2004年  『コラテラル』

2006年  『マイアミ・バイス』

ジョン・カーペンター監督<お勧め名作映画作品>

お勧め名作映画(邦画洋画)

【ジョン・カーペンター監督】

ジョン・カーペンター監督は、

ニューヨーク州出身。

南カリフォルニア大学映画学科卒。

在学中に製作した短編映画『ブロンコ・ビリーの復活』

で1970年アカデミー短編賞を受賞している

ジョン・カーペンターの作品群は

低予算で面白く、良質で、

エンターテイメント作品が作れる

ことを証明しているといえる。

要するに才能溢れる監督。

作品が多い監督だが、

名作といわれるものは「スターマン」

くらいしか撮っていないと思う。

そののち最初は低予算で撮らなければ

ならない世の監督に道を示した。

特に好きな作品が以下の作品!

まだ他にもたくさんの作品があるので、

是非、見てみてください!

ジョン・カーペンター監督作品群:

1976年 『要塞警察』

1978年 『ハロウィン』

1981年 『ハロウィンⅡ』

1982年 『ハロウィンⅢ』

1980年 『ザ・フォッグ』

1982年 『遊星からの物体X』

1984年  『スターマン/愛・宇宙はるかに』

1996年  『エスケープ・フロム・L.A.』

キャスリン・ビグロー監督映画<お勧め名作映画作品>

お勧め名作映画(邦画洋画)

【キャスリン・ビグロー監督】

キャスリン・ビグロー監督はかなり美人の女性監督

カリフォルニア州サンマテオ郡サンカルロス出身。

コロンビア大学芸術大学院で映画理論と

批評を学んだ。

1978年に短編映画『The Set-Up』で

映画監督デビュー。

私生活では、

1989年にジェームズ・キャメロンと結婚したが、

1991年に離婚した。

女性の感性で男を描く監督だからか、、

ストイックでスタイリッシュ、

さっぱりしていて 汗臭さと、

どろどろ感はまったくない。

ハードボイルさは、

マイケル・マンに勝るとも劣らない。

私が、初めてみたのは「ブルースチール」、

実は最初は女性監督とは 知らなかった。

私はマイケル・マンやリドリー・スコット

が好きで、なにか共通点を感じたが、

なにか違う、、、、ああ、女性監督だったか

と思いました。

『ハート・ロッカー』以前の傑作いえば、

「ハート・ブルー」。

これで、キャスリン・ビグロー監督の

ファンになった人も少なくないはず。

 

アクション映画だが、男も女も楽しめる作品だ。

キャスリン・ビグロー監督作品群:

1983年 「ラブレス The Loveless」

1989年 「ニア・ダーク/月夜の出来事」

1990年 「ブルースチール Blue Steel」

1991年 「ハートブルー Point Break」

1995年 「ストレンジ・デイズ/1999年12月31日 Strange Days」

2000年 「悪魔の呼ぶ海へ The Weight of Water」

2002年 「K-19: The Widowmaker」

2009年 「ハート・ロッカー The Hurt Locker」

フェデリコ・フェリーニ監督映画作品<お勧め名作映画>

お勧め名作映画(邦画洋画)

【フェデリコ・フェリーニ監督】

フェデリコ・フェリーニ
(Federico Fellini,
1920年1月20日 - 1993年10月31日)は

イタリア・リミニ生まれの映画監督、脚本家。

「映像の魔術師」

の異名を持つ映像作家です。

フェデリコ・フェリーニは、

高校卒業後、新聞社に勤務し、

古都フィレンツェや首都ローマで挿絵

や雑文を書いていた。

その後、ラジオドラマの原稿執筆などを

経てロベルト・ロッセリーニ監督の

映画『無防備都市』のシナリオに協力。

同作品はイタリア・ネオリアリスモ映画を

世界に知らしめた記念碑的作品となった。

ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞。

続く『道』(1954年)では

甘美なテーマ曲と物語の叙情性と

ヒューマニズムから世界的なヒット作となり、

フェリーニの国際的な名声が確立する。

ネオリアリスモ的作風に変化が現れるのは

『甘い生活』(1959年)からとされる[要出典]。

退廃的なローマ社会を描いたこの作品は

フェリーニの力強い社会批判であるが、

ヘリコプターで吊るされた巨大なキリスト像

の冒頭シーンや、河から引き上げられた

怪魚のラストシーンに顕著なように、

ストーリーの随所にシンボルが配置されて

独特の映像感覚が発揮される。

この手法は『8 1/2』(1963年)

で極度に推し進められ、

「映画が撮れなくなった映画監督」

の話を借りてフェリーニの内面が赤裸々かつ

高度なシンボル的映像表現で綴られることになる。

『道』
『カビリアの夜』
『8 1/2』
『フェリーニのアマルコルド』
で4度のアカデミー賞外国語映画賞を、
1992年にはアカデミー賞名誉賞を受賞。

『甘い生活』では
カンヌ国際映画祭・パルム・ドールを受賞。
20世紀の映画監督として十指に必ず入る
巨匠である。

1993年に脳内出血で倒れ、

同年10月31日、心臓発作で死去。

73歳。

その葬儀はローマの

サンタマリア・デリ・アンジェリ教会にて

国葬として執り行われた。

映画監督を「国葬」にしたイタリアの芸術家に

対する尊敬の念に、感嘆したことを覚えています。

それだけ、フェリーニは別格だったのかもしれ
ませんが。。

妻のジュリエッタ・マシーナは

駆け出し時代の彼のラジオドラマに出演し、
『道』
『カビリアの夜』
『魂のジュリエッタ』
『ジンジャーとフレッド』
などにも主演した。

フェデリコ・フェリーニ監督作品群:

1954年 『道』

ヴェネツィア国際映画祭 サン・マルコ銀獅子賞、アカデミー賞外国語映画賞を受賞 - キネマ旬報ベスト・テン 第1位

1955年 『崖』

1957年  『カビリアの夜』

アカデミー賞外国語映画賞、カンヌ国際映画祭女優賞などを受賞、 - キネマ旬報ベスト・テン 第7位

1959年 『甘い生活』

カンヌ国際映画祭パルム・ドール、 NY批評家協会賞外国映画賞を受賞、 - キネマ旬報ベスト・テン 第2位

1963年  『8 1/2』

1959年 『甘い生活』

カンヌ国際映画祭パルム・ドール、 NY批評家協会賞外国映画賞を受賞、 - キネマ旬報ベスト・テン 第2位

1964年 『魂のジュリエッタ』

ゴールデン・グローブ外国映画賞、 NY批評家協会賞外国映画賞を受賞

1972年 『フェリーニのローマ 』

1973年 『フェリーニのアマルコルド』

アカデミー賞外国語映画賞、 NY批評家協会賞作品賞を受賞

1987年 『インテルビスタ』

モスクワ映画祭グランプリ受賞

チャールズ・チャップリン監督映画作品<お勧め名作映画>

お勧め名作映画(邦画洋画)

【チャールズ・チャップリン監督】

チャールズ・スペンサー・チャップリン・ジュニア
(Charles Spencer Chaplin, Jr.、
1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、

映画の黎明期に数々の名作を作り上げ、
「喜劇王」の異名をもつ、
イギリスの映画俳優、映画監督、
コメディアン、脚本家、映画プロデューサー
である。

愛称は“チャーリー”、または
“シャルロ(Charlot)”。

また、

バスター・キートンや
ハロルド・ロイドと並び、
「世界の三大喜劇王」とも
呼ばれた。

チャップリンの最もよく知られている

役柄は「小さな放浪者=The Little Tramp」

である。

窮屈な上着に、だぶだぶのズボンと

大きすぎる靴(ドタ靴)、

山高帽に竹のステッキといったいでたちの

ちょび髭の人物で、アヒルのように

足を大きく広げてガニ股で歩く。

歩き方自体がユーモラスで、魅力的!

落ちぶれた紳士のホームレスだが

ジェントルマンとしての威厳をもち、

優雅な物腰とその持ち前の反骨精神

でブルジョワを茶化し、権力を笑い飛ばした。

独裁者アドルフ・ヒトラーを皮肉った映画

『独裁者』で有名だが、

そのモデルとなったヒトラーと誕生年月が同じ、

1889年4月である(チャップリンの方が4日早い)。

1932年、来日していて、

訪日中たまたま発生した「五・一五事件」

の巻添えになりかけた実話がある。

「日本に退廃文化を流した元凶」として、

首謀者の間でチャップリンの暗殺が

画策されていたそうだ。

運転手として日本人の高野虎市が雇われて

いたことも有名で、親日家としても

知られている。

第二次世界大戦が終結し、ソビエト連邦を

はじめとする東側諸国との冷戦が

始まったアメリカで、そのファシズムを

批判する彼の作風が「容共的である」とされ、

非難の的とされた。

第二次世界大戦前の1936年に発表

された問題作

『モダン・タイムス』

『独裁者』

特に1947年公開の『殺人狂時代』以降は

バッシングも激しくなり、

1950年代に入り、

ジョセフ・マッカーシー上院議員指揮の下、

赤狩りを進める非米活動調査委員会から、

他の「容共的である」とされた俳優や監督

とともに何度も召喚命令を受けた。

その後、1952年に『ライムライト』の

ロンドンでのプレミアのためにイギリス

に向かう最中、トルーマン政権の

法務長官から事実上の国外追放命令を受け、

その結果、自身の意にはそぐわなかったが、

スイス・ローザンヌのアメリカ領事館で

再入国許可証を返還。

アメリカと決別をすることになる。

貧しさの中で育ったチャップリンとしては、

貧しい者の側に立った映画が多く、

自然と資本家、権力者を批判する形になった

のだろう。

1954年に、世界平和評議会が平和国際賞を贈る。

1965年にエラスムス賞を受賞。

その頃に公刊された『私の自叙伝』は

空前のベストセラーとなった。

1971年、フランス政府によりレジオンドヌール勲章、

パリ市議会からは名誉市民の称号を与えられる。

1972年、アカデミー賞授賞式に出席するため、

20年ぶりにアメリカの地を踏み、

特別賞が授与された。

この際会場を埋めた映画関係者は、

舞台上に登壇したチャップリンに対し

スタンディングオベーションで迎えた。

チャップリンの墓1975年には、

それまでの活動を評価されエリザベス2世より

ナイトに叙され「サー・チャールズ」

となった。

チャップリン監督作品群:

1925年 『黄金狂時代』

1928年 『サーカス』

1936年 『街の灯』

1982年 『モダン・タイムス』

1940年  『独裁者』

1942年  『黄金狂時代』

1947年  『殺人狂時代』

1952年  『ライムライト』

2011年5月26日 (木)

ジャン=ピエール・メルヴィル監督映画<フィルム・ノワール映画傑作作品>

【ジャン=ピエール・メルヴィル(Jean-Pierre Melville)】

ジャン=ピエール・メルヴィル(Jean-Pierre Melville)

(1917 - 1973)

は、フランスの映画監督です。

作家ハーマン・メルヴィルの名から取って、

ジャン=ピエール・メルヴィルと名乗っている。

本名は、ジャン=ピエール・クロード・グランバック。

ド・ゴール率いる自由フランス軍に入り、

中でも、レジスタンス活動に加わった経験は、

後々まで彼の創作活動に決定的な影響を与えた。

彼はフランス映画よりもむしろアメリカ映画に熱狂し、

好きな映画監督としてすぐさま63人の名を挙げる

ほどだった。

(名匠小津安二郎監督も若いときはアメリカ映画

ばかり見ていたらしい、

それでいて撮った映画は非常に日本的なものという

はなんとなく似てるなと感じる、

メルヴィルも、“メルヴィル・タッチ”

とも言われるストイックでクール

なフランス的な映像美で、評価を得る。)

特にジョン・ヒューストンの

『アスファルト・ジャングル』は最も偉大な映画の

1本と語っている

後輩の映画監督たちにも強い影響を与え、

当時のメルヴィルに影響をうけていた

ジャン=リュック・ゴダールから、

現代の若い映画監督ジム・ジャームッシュ、

クエンティン・タランティーノら

に至るまで、この作品に魅了された映画監督

は数知れません。

私もメルヴィルを知ったのは、

クエンティン・タランティーノの

インタビューを読んででした。(「いぬ」について)

早速近所のレンタルビデオ屋に行ったがなく、

たまたま東京出張時に

ビデオを購入しました。

(まだDVDではなく、

ビデオが主流の時代でしたので。。)

ジャン=ピエール・メルヴィル作品群:

1949年 『海の沈黙』

1950年 『恐るべき子供たち』

1953年 『この手紙を読むときは』

1956年 『賭博師ボブ』

1959年 『マンハッタンの二人の男』

1961年 『モラン神父』

1963年 『いぬ』

1963年 『フェルショー家の長男』

1966年 『ギャング』

1967年 『サムライ』

1969年 『影の軍隊』

1970年  『仁義』

1972年 『リスボン特急』

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